マツダの自動車メーカーとしての歩みと未来
2024/08/15
マツダは、1920年に創業されて以来、自動車産業において独自の道を歩んできました。初めての乗用車を発表した後、マツダは革新的な技術やデザインを追求し続け、国内外で高い評価を受けてきました。特に、ロータリーエンジンの開発や、走行性能と環境性能を両立させたSKYACTIV技術の導入は、マツダを特徴づける重要な要素となっています。今後、持続可能なモビリティ社会を目指す中で、マツダはどのような未来を描いているのでしょうか。本稿では、マツダのこれまでの歩みを振り返りつつ、今後の展望について考察します。
目次
マツダの創業時代に起きた出来事
マツダの創業は1920年まで遡ります。
当初は、コルクを製造する「東洋工業コルク株式会社」という名称で会社が設立されました。
その後、1927年には「東洋工業株式会社」へと社名を変更します。
1928年~終戦までは国や行政から軍需工場としての指定を順々に受けはじめ、それに沿った生産や開発に挑んでいくことになります。
その折、1931年に三菱商事と3輪トラック(通称マツダ号)を生産する契約を締結しました。
これが、マツダの自動車製品開発の第一号となります。
このマツダ号は、見た目はトラックというよりはバイクに近いもので、屋根はなく後方に荷物を積むことができるスペースが付いているといった仕様の自動車です。
太平洋戦争の末期に、広島に原爆が投下されたのは周知の事実ですが、マツダは郊外に本社や工場を置いていたため、直接の被害はありませんでした。
ただ、1945年の12月までは生産を停止することを余儀なくされました。
終戦後の1960年、初めての乗用車となる「R360クーペ」の販売がスタートしました。
安価ということもあり好評を博しました。
そして、1984年に「マツダ株式会社」に社名を変更します。
社名の由来は、創業者である松田重次郎氏と、ゾロアスター教の最高神で、叡智、理性、調和の神である「アフラ・マズダー(Ahura Mazda)」となっています。
英語での社名表記が「Mazda」なのは、このゾロアスター教の神の名前が理由とされています。
マツダのロータリーエンジンの仕組みとは?
1960年に販売がスタートした「R360クーペ」から1年後に、NSU社(現・アウディ)からロータリーエンジンについての技術提携を受けました。
この提携により、1967年ロータリーエンジンを搭載した「コスモスポーツ」を販売することになります。
このロータリーエンジンは、一般的に用いられる往復動機構によりエネルギーを得て出力するレシプロエンジンと異なり、回転動機構により容積変化を起こし、そこから発生する熱エネルギーを変換して出力するエンジンとなっています。
英語で「ロータリー」が回転するといった意味の単語なので、それをイメージするとわかりやすいでしょう。
このエンジンのメリットとしては、高出力かつ振動が少ないというものが挙げられます。
また、このエンジンの量産化に成功したのは世界でもマツダだけとなっています。
5チャンネル化の失敗
マツダの失敗のなかでも「5チャンネル化」は特に業績に甚大なダメージを与えてしまう結果となりました。
5チャンネル化とは、1989年に始めた経営戦略で、主力の「マツダ店」、スポーツカーを取り扱う「アンフィニ店」、ユーノスコスモ、ユーノス・ロードスターなどを取り扱う「ユーノス店」、小型車や軽自動車を取り扱う「オートザム店」、提携をしていたフォード車を販売する「オートラマ店」の5店舗のことを指します。
この経営戦略は、急激に販路を広げてしまうといったリスクが内在されており、市場もマツダ自体もそのスピードと規模に追いつくことができず、その結果業績が低迷してしまいました。
1996年には、5チャンネル化を撤廃して主力のマツダ店に販売を集約しますが、すぐには業績を回復できませんでした。
その後、フォード社の株を徐々に売却していくことになり、2015年には完全に独立することになります。
そして復活へ
2010年に「SKYACTIV TECHNOLOGY」という方針を発表し、新たな技術開発に着手します。
そして、2012年に販売をスタートした「CX-5」をきっかけに、マツダは再び業績を回復しはじめました。
このように、大きな方針転換や技術開発により復活を遂げるというのは、マツダは大手ながらもフットワークの軽い企業だと言えるでしょう。
大手メーカーで働くことは、大きな失敗や成功を経験できる場であることがマツダの歴史から見受けられます。
成功はもちろんですが、失敗から学べることも多く、その現場で実際に働くことは、自分自身への成長や今後の知見につながるのではないでしょうか。