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富士自動車の歴史と未来展望 - 日本の自動車メーカーの魅力深掘り

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富士自動車の歴史と未来展望 - 日本の自動車メーカーの魅力深掘り

富士自動車の歴史と未来展望 - 日本の自動車メーカーの魅力深掘り

2024/08/11

富士自動車という名前を聞いたことがあるでしょうか?この日本の自動車メーカーは、古くから存在しているにもかかわらず、あまり知られていないかもしれません。しかし、富士自動車の歴史は長く、技術力も高く、現在も独自の道を歩んでいます。今回は、そんな富士自動車の魅力を深掘りしながら、その歴史と未来展望についてお届けします。

目次

    富士自動車の始まり

    富士自動車は、昭和初期に山本 惣治によって創業されました。

    自動車メーカーとしてはキャビンスクーターのフジキャビンをわずかばかり、軽1BOX車のガスデンミニバンに至っては販売すらできませんでしたが、単に「進駐軍の自動車修理」というだけではなく、戦後復興期の日本で大きな役割を果たしたのは間違いありません。

    もし、歴史の歯車が少し違う動きをしていたら、今も自動車メーカーのひとつだったかもしれない…

    創設者:山本惣治

    第2次世界大戦の敗戦から2年を経た1947年5月、単に「資本金1万円以上の会社の社長だから」という理由だけで、進駐軍の命令によるパージ(公職追放)を受け、日産の社長を追われた1人の男がいました。

    彼の名は山本 惣治(やまもと そうじ)。

    1927年、後に日産コンツェルン(鮎川財閥)の中核となる戸畑鋳物で、シボレーやフォード車向け部品製造から自動車畑に関わり、同社が傘下に置いたダット自動車製造の取締役にもなって、同社の分割と「ダットサン」ブランド取得、日産自動車設立に関与。

    その後も満州(現在の中国東北部)へ渡るなど、日産コンツェルンに関わる企業の要職を経て、日本の敗戦直後、1945年10月に日産自動車の社長へ就任するや進駐軍に掛け合って工場の操業再開に成功するなど、連合軍施政下でも活躍します。

    FRPモノコックの2人乗りキャビンスクーター、フジキャビン

    富士自動車が期待を寄せたフジキャビンですが、「クルマなんて小さくて簡素であるほど面白い」というマニアには今でも人気がある、本当に雨風がしのげるだけのレベルで簡素なキャビンスクーターです。

    量産車としては世界初採用と思われるFRPモノコックボディは、ソラマメを細長く伸ばしたような曲面で強度を確保しつつ超軽量でしたが、空冷単気筒2サイクル121ccエンジンはたった5馬力で、車重わずか150kgでも人が乗ると完全にアンダーパワーでした。

    前2輪、後1輪の3輪車でサスペンションはゴム製、FRPモノコックの一部である台座と背もたれにクッションを貼っただけのシートは助手席が運転席より後退しており、初期型は助手席側だけの1ドアで、助手席に人が乗ったままでもドライバーが乗降可能という触れ込み。

    復刻すると面白そう

    1950年代の日本ではFRPモノコックの量産自体が無理そうですが、仮にそれがうまくいっても1958年には追浜工場閉鎖に伴う従業員の大量解雇、退職金による経営悪化と鶴見工場の売却が待っていましたから、どのみち失敗する運命でした。

    1962年にマン島(イギリス王室領)のピール・エンジニアリング・カンパニーが発売した1人乗りマイクロカー、「ピール P50」とは2人乗りという違いがあるもののコンセプトがよく似ており、簡易EVとして(もちろん鉛バッテリーで)再販したら面白いかもしれません。

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